成長を重視するのか、格差の縮小を重視するのかが争点になっているが、どちらの議論も豊かさの絶対的な水準を議論しているのではない。 単に豊かさを目指すのであれば、豊かさを維持することを目標にするか、最も貧しい人達の生活水準を引き上げることを目標にすればいいはずだが、そうではなくて過去との相対的な所得の変化である成長率や、他人との相対的な差である格差が政策の論点になっている。
しかし、政策を考えるうえではどれだけの所得を得ているか、どれだけの消費をしているかという絶対的な水準が豊かさ指標になるべきだ。そうでないと、妙なことが生じてしまう。
高所得者が多少の所得の減少を不幸に感じたからといって、それよりはるかに低所得だが少し所得が上がって幸せと感じる人から税金をとって、「不幸」な高所得者に補助金を渡すのはおかしい。 また低所得の地域に住む平均的な低所得者から税金をとって、高所得の地域に住んで多少その地域の平均よりも低い所得を持つ「不幸」な高所得者に補助金を渡すのもおかしいであろう。
そんなことは当たり前だと思うかもしれない。しかし、高所得の人がリストラされてかなり低い所得の仕事に就くことを「不幸」とみなし、職場で高所得者を守ることによって、最初からそれよりもはるかに低い所得で働くことを余儀なくされている人の機会を奪ってきたのではないだろうか。
強い不満を持つ人の方が、強い政治力を発揮することが多い。絶対的水準では貧しいはずの人から、豊かな人への所得移転を推進するような規制や所得再分配政策が実際に行なわれてしまうのは、人間のこうした特性のためだ。正社員の既得権を守ったために就職氷河期が発生したのも、公的年金改革が進まないのも同じ理由ではないだろうか。
奇妙な再分配を避けるには、成長や格差といった過去や他人との比較から逃れて、将来に目を向け絶対水準でものを考えることが必要だ。
英語の原文: "A Common Trap in Growth-Disparity Argument"
http://www.glocom.org/opinions/essays/20070319_otake_common/