『普通の大国』としての日本再考
猪口 孝 (東京大学教授)
オリジナルの英文:
"Rethinking Japan as an Ordinary Power"
http://www.glocom.org/opinions/essays/20030612_inoguchi_rethinking/
要 旨
21世紀の初めの日本は、1945年以来経験したことのないような大きな転換期を迎えているといっても過言ではない。それはいわば、「正常でない国」から「正常な国」へ、また「普通でない大国」から「普通の大国」への転換期と表現できる。本稿の目的は、この転換期の性格を明らかにすることである。
「普通の大国」とは、国際的な秩序や正義を意識して自分の国際的な政治行動を行う大国のことをいう。ここで「秩序」とは、国際社会とその構成員の安定性と予測可能性を意味し、「正義」とは、自由、平等、非暴力といった価値を人類のために達成することである。したがって、「普通の大国」とは、秩序と正義について出来る限りでその達成に真剣に努力する大国を意味する。
冷戦の時代は、大国にとって秩序が一義的な関心事で、正義は二次的な位置に置かれていた。しかし冷戦終了後は、大国にとって正義が一義的な関心事として浮上したのである。したがって、1990年代には正義が国内にとどまらず国境を越えて適用される事態が日常化した。ここで2つの問題が生じる。(1)何が正義で何が正義でないかの定義が難しく、正義を実現するために力の脅威と行使が必要な場合には特にそうである。(2)正義をどのように定義するにせよ、力を行使して効果的に正義を実現することは容易でない。
以下では、過去20年ほどにわたる世界の中での日本の位置と役割に関して、日本の4つの「顔」を取り上げる。ここで当然仮定されているのは、米国があくまで主導的な位置と役割を果たすということである。
1)サポーター:1980年代における日本の主要な役どころの表現、ただしこの位置付けと役割は国際経済体制の中に組み込まれ、そこから派生するものであるために、秩序を維持することが求められる。
2)グローバルな文民大国:1990年代における日本の主要な役どころの表現、ただし、この位置付けと役割は、これまでの同盟国としての責務、および非武装大国の限界とグローバルな文民大国の誇りとの間の葛藤によって規定される。
3)自発的なパートナー:2000年代における日本の主要な役どころの表現、ただし、この位置付けと役割は冷戦後の価値と制度の収束によって規定され、リスクの大きな時代に重要なのはパートナーシップを築く上で信頼を育てることで、その際に正義の問題がポイントとなる。
4)体制的な潮流の交差:2000年代における体制のあり方の表現、ただし、体制的な潮流の交差が国家の役割や政策をどう規定するかについては、国家に固有の要因に依存する面が大きく、正義の問題も他の問題と分かちがたく関係してくる。
上記の第1について、日本は、国際政治経済における貿易、通貨、金融、発展、安全保障などの規範や規則を形成し維持する上で、米国のサポーターとして世界に登場した。その背景には日本の競争力の急伸があり、それが1980年代から90年代中盤まで時によって米国に対する脅威と見なされることもあった。ただし、その見方は米国経済が1990年代から長期の好況期を迎えたことから急速に終息に向かう。
第2については、牙を持たない経済大国として、ドイツと日本が「グローバルな文民大国」として登場した。「サポーター」という概念は国際政治経済の分野に限られる傾向がある一方で、「グローバルな文民国家」という概念は国際的な安全保障の分野まで明示的にカバーするものと考えられる。ただし、それは戦争には加担しないが、平和維持には参加するものである。ドイツも日本も軍事力を持って積極的に行動することはしないものの、平和維持活動を通じて戦争の起こらないような国を再建し、国内を安定させることができるという自信を深めつつある。この概念は、冷戦の終結とともに出てきたもので、軍事力の行使によらず、経済大国として貧しい国を助ける役割を負うことは、ドイツや日本にとってやりがいのあることといえる。
第3については、2001年の9月11日の事件以来よりはっきりしてきたもので、同盟関係よりも、パートナーとしての役割が非常に重要になってきたといえる。そのようなパートナーシップは、リスクの大きい時代にお互いにコミットし、志を一つにして協力することから生まれる信頼関係を基盤とするものである。ブッシュ大統領が9月11日の事件後に強調した「有志連合」(coalition of the willing)は、そのようなパートナーシップと考えられる。したがって、同盟関係も大きく変化し、欧州でも、英国、フランス、ドイツはそれぞれ異なるスタンスを取るようになった。この点で、日本はイラク戦争によってルビコンの川を渡って、英国と同じ方向に進み出したといえる。
第4については、より広く、3つの大きなグローバルな政治の思想的な潮流があると考えられる。「ウエストファーリア体制」(Westphalian)は国家主権を中心にグローバルな政治を考えるもの。「フィラデルフィア体制」(Philadelphian)は人民の主権を中心にグローバルな政治を考えるもので、さらに「反ユートピア体制」(Anti-Utopian)は主権のない国際政治を考えるものである。このような枠組みは、世界の中での日本の役割を決める上で重要であり、この3つの全く異なる思想的潮流は、それぞれ国家に対して違った役割を付与すると考えられる。
ここで当然、日本が「普通の大国」になりつつあるのかという疑問が生じるであろう。それに対しては以下の4つの答えが与えられる。
1)日本は、1980年代に時として米国との関係を損ない、それに挑戦するものではないかと疑られることもあったが、基本的には米国主導の国際的経済体制の確実なサポーターであった。米国優位が続くと仮定して、日本は特に安全保障分野以外で、その積極的で建設的な役割と地位を強調したかった。
2)グローバルな文民大国であり、常に人的および経済的発展と平和維持などの活動に重点を置いてきた。冷戦後はより平和的な世界となるので、軍事力の行使は最小限のものに抑えられるはずであった。
3)反テロリズムの有志連合への参加国であり、そのためにブッシュ大統領が小泉首相に親しく接することになった。例えば、小泉首相をテキサスのクロフォードまで招き、1対1で話し合った時間は10時間に及んだのに対して、韓国の大統領とはたった38分過ごしただけであった。
4)融通の利かないウエストファーリア体制の考え方から、フィラデルフィア体制や反ユートピア体制をミックスした考え方へと移行した。そのような体制の変化は9月11日の事件以来明確になったもので、テロに対する戦いや後方支援、さらには情報の収集や共有、警察活動、財政的支援、経済の再建と発展などが徐々に視野に入ってきている。米国だけでなく、そのパートナーにとっても、ビジョンと知識を共有し、グローバルな統治機構を維持することが、フィラデルフィア体制と反ユートピア体制の考え方と実現にとって大きな特徴となっている。
以上のような過去20年にわたる日本の4段階の歴史的進化の説明は、日本が徐々に普通の大国になりつつあるという命題とうまく合致するであろうか。私は、それが合致すると主張するものである。
(抄訳:宮尾尊弘)
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