まず、アジアの地域主義やアジア地域に対するイメージが二極化していることを指摘したい。一方において、アジアには台湾海峡や朝鮮半島について冷戦時代の問題が残っていることに加えて、文化も言語も宗教も違う国が集まっており、何かアジア全体の価値観といったものは存在しえないという印象が強い。またアジアは中国、インドネシア、日本といった人口の多い国とその他の小国とがあり、経済発展の水準も非常に違うといった問題もある。
したがって、このような印象にしたがえば、西欧やその他の地域に比べると、アジアでは共同体や地域のアイデンティティを創造することは非常に難しいというイメージが生まれる。そして、アジアは敵対の場であり、大国の紛争の戦場とさえいわれるほどである。
しかしそれとは反対に、アジアの地域的関係の違った側面を取り上げた研究も多く存在し、それは歴史上の変化により注目するもので、それによればアジアでの経済的関係が強まっており、国境を越えた生産、金融、交通、通信が進み、それがアジアで対立よりも協力を促進する状況を生み出しているという。
アジアの分裂の歴史
アジアの歴史をさかのぼれば、中国を中心とする長い歴史があり、海を挟んだ交易の伝統もあり、不平等ながら中国の秩序を受け入れれば、各国は自由かつ平和に行動することが許され、比較的紛争のない時代があった。しかしそのような協力の時代は西欧列強による帝国主義的な植民地支配によって根底から覆されてしまった。19世紀中ごろから第二次大戦にいたるまでアジアは列強の間の紛争によって深く引き裂かれたのである。
そしてアジアの分裂は冷戦によってさらに続き、中国やソ連を中心とする同盟国に対して米国を中心とする同盟国が対峙するとともに、1960年代から70年代にかけての植民地の清算とともに新しく独立した国が、地域協力よりもナショナリズムを重視したためにそれがさらに悪化したといえる。
この点で最後に強調したいのは、米国の安全保障政策がアジア地域の分裂を助長してきたということである。米国のアジアでの外交政策は、欧州での政策と違って、「ハブとスポーク」の原理にしたがうもので、ワシントンがハブで、アジア各国の首都にスポークが伸びているという形になっており、アジアの国同士が直接に協力することが妨げられてきた。
アジア統合への3つの変化
その後のアジアの協力と統合を推進するような3つの変化を指摘したい。まず第1の変化は、1950年代から70年代に至るまで続いた日本の経済的な成功で、それが日本のアジアに対する経済援助や経済発展に向けて重要な役割を果たしたことである。さらに日本は米国型でない経済発展モデルを提供して、アジア諸国における金融、貿易、保護政策、保守政治、労使関係のシステムを示したという点でお手本となったといえる。
第2の変化は中国の変貌で、共産主義から離れて、米国や日本との関係を改善する方向に進んでいる。中国は韓国、台湾、日本といった経済発展に成功した国をモデルとして開発を続けており、そのイデオロギー路線を捨てて、他のアジア諸国とさらに統合する道を選んだのである。
第3の大きな変化は、東南アジアでASEANが生まれてから進展していることである。1960年代末から70年代初頭に、自国のアイデンティティに苦しんでいた東南アジア諸国は、自分達が中国や米国のような大国に比して非常に弱いことを認識し、統合によって一つの声でアジアの政治や経済発展に対して発言力を高めようとしたのである。そのため東南アジア諸国の絆は強められ、その後参加10カ国にまで広げられた。ASEANの推進者たちは、よく「アジア方式」を強調するが、これは意見の違いを尊重し、公式の決まりを最小限にして、対話によりコンセンサスを形成し、色々な問題を公式の制度などによらずに協力により解決しようとするもので、それがアジア地域を活性化する大きな力となっている。
公的な組織の拡大
アジアの地域統合について3種類の推進者がおり、それぞれが異なるレベルでアジアのために動いている。まず政府のレベルであるが、多くのアジアの政府、特に日本、中国およびインドネシアなどは、どれだけアジアとして公的な組織を作って、自国の主権をどこまで放棄すべきかについては迷いを持ってきた。特に東アジアでは、東南アジアと違って、地域協力に対する抵抗が強かったといえる。中国は日本を信用しておらず、日本も中国に懐疑的で、さらに韓国は中国も日本も信用していない。そのためこれらの国はなかなか協力できないでいる。
それにもかかわらず、ASEAN、APEC、ASEANプラス3、ARF、さらには上海協力機構のような新しい地域的な組織が生み出された。実際に1990年と2002年を比べれば新しい公的組織の数とその関係は急速に拡大し、それらは各国政府によって推進されてきた。その意味で公式の組織や公的な協力関係は実質的に進展したといえる。
それよりもはるかに印象的なのは政府間の非公式なアレンジであり、それにより技術交流や、国際犯罪、著作権問題、移民、環境問題といった分野での協力関係が進み、最近ではさらにアジアでのテロ対策についての協力や行動が目立つようになっている。こられは非常に重要で、主として政府が推進しているものである。
民間の活動とポップカルチャー
さらに重要な活動は、民間の企業や金融機関よる活動である。その活動の多くは1985年のプラザ合意以降、日本、台湾、韓国などの通貨価値が上がり、それによってそれらの国の民間企業が中国や東南アジアに多額の投資を行なうことによって進められ、その後もシンガポールやマレーシアなどが対外投資を行い生産のネットワークを発展させた。これらの動きがアジア諸国の経済的な関係を強めたことは確かである。
それ以上に興味深く楽しい展開は、そのような企業の多くが「アジアのポップカルチャー」という共通の概念を推進していることで、日本企業がカラオケやJポップを輸出し、韓国はKポップを輸出し、マンガはグローバルな現象となり、韓国ドラマも非常な人気で、日本の映画やポップアートも海外で評価されている。アジア各国の都市で中産階級が増えるにつれて、ソウル、台北、シンガポール、香港、大阪などでの市民の文化的な経験は共通のものになってきているのである。
政府と企業に加えてアジア統合の第3の推進者は、問題志向型の組織である。そのような組織は例えば環境問題などに焦点を当てて活動するグループであり、政府関係者と民間の人間を交流させて、例えばアジアの著作権問題、安全保障問題、テロ対策などいろいろな問題に対する解決策を議論するものである。このレベルでの活動もかなり盛んになっている。
地域主義と地域化の違い
以上で指摘したような協力関係は、2つの異なる方向性をもっている。1つの方向は、「地域主義」といえるもので、トップダウン方式で、政府の行動と正式な取り決めや制度を重視するものである。これは政治学者になじみの深いものといえる。しかしさらにトップダウンだけでなく、ボトムアップな「地域化」というプロセスにも注意することが重要である。この「地域化」は、政府でなく社会によって推進されるもので、企業、民間グループ、また時にはNGOによって進められている。
基本的に、これらの関係はボトムアップで、政府の関与はなく、国の主権にも触れることはない。それらはあまり公式的でなく、アジアでの共通の経験を提供し、継続する対話がアジア諸国の間で行なわれ、それによってより多くの個人、企業、政府が、EU方式とは異なるアジア方式で協力することを必要と感じるようになる。ある意味で、EUは地域的な統合の例外的なケースで、アジアのほうが中南米や中東で起こっていることに近い形での統合を進めているといえるのかもしれない。
流動的な外との境界
最後に指摘したい点は、外との境界が伸縮的であるということである。地域ブロックを形成することについてはいろいろな議論があり、特に西欧で形成されたEUは保護的な側面を持っている。しかし、アジアで観察できるのは、もっとオープンな同心円状の協力関係である。実際に、東アジアとは何を意味するかを決めるのは非常に難しい。アジア地域や東アジア地域は、時としてEAEC あるいはASEANプラス3だったりするが、しかし他の場合はAPEC や上海協力機構のようにアジア諸国が関与する公式の組織がいくつか存在する。
特に安全保障のような問題を考える場合は、重要なプレーヤーとしての米国を考慮に入れずには成り立たない。またロシアを考慮に入れる必要もあり、多分中東も東南アジアのテログループと関係が深いので考慮しなければならないであろう。同じことが、環境問題やその他の問題を考える場合にも当てはまるのである。
したがって最後のポイントは、 東アジアと考えられる地域はその外との境界が非常に流動的であるということで、いろいろな国が含まれたり含まれなかったりするとともに、中心から離れるにつれてそれらの関係は薄まっていくという性質を持つ。このような関係はある意味で非常に健全な地域主義であり、アジアの政府や個人が一本の足をアジア側に、またもう一本の足をグローバルな世界の側に置くことを許すものである。したがって、アジアは例えば金融の問題ではアジア内部に解決を求めるとともに、例えば貿易や安全保障の問題では米国、カナダ、欧州といった外部の国々と協力することが可能である。長期的にこのような流動性は、アジアがある程度の伸縮性と多少非公式な構造を維持しつつ、お互いに関係を深めて、その時々に直面する問題が変わるにつれて、地域の境界を変化させつつ対応していく上でプラスが大きいといえるであろう。
(本稿は、2004年3月29日に東京大学東洋文化研究所で開催されたシンポジウム「朝鮮半島、台湾、東アジア ─ 最近の展開と展望」におけるペンペル教授の講演要旨である)